記録 『オイディプス・W』
実験・創造工房 研究試演Y
2004年12月1日(水) 
ザムザ阿佐ヶ谷
監修 林英樹

モノプレイ
構成・演出・演技 桑原健


試演会終了。
手探りの作業も気が付けば四回目となった。


今回は『コインロッカーベイビーズ』をテキスト引用し、「子供を捨てた母親(イ オカステ)」を題材として構成した。
前回の総括で『オイディプス王』の裏に流れているのは復讐劇かもしれない、 という考えが生まれ、「そういえばそんな話あったなあ。」と思い出し、本棚から 引っ張り出した。
それまで、オイディプスの心情を中心に思索していたため、他の人物の心理 には目が行かなかった。「イオカステだって我が子を捨てる(殺す)という事に 苦悩しなかったはずがないよな。」そんな思いつきから今回のポイントを定め ていった。
捨てられた子供の視点ではなく、捨てた母親の視点から描いてみた。

一回目の発表から、『オイディプス王』の何に焦点を当てるか考えたとき、『母 親を妻にしてしまった悲劇』=『息子と交わった母親』=『運命の歯車』に意識 が傾いていた。なぜか僕には『父親殺し』の部分に対する興味が薄く、それよ りも『母』と『息子』の関係性に興味があった。
僕は男なので、当然ながら子供を産めない。
自分の体内に命が芽生え、自分の分身(自分自身)が大きくなっていき、やが て産みだすという現象は不思議でしょうがない。いったいどんな感覚なのだろ う?そして、その子供を捨てる時、母は何を思う?
男である自分が母の心情に取り組む事は意義があると思った。
そして(おそらくであるが)自分の中に強くある女性性、それも探ってみたかっ た。




もうひとつの視点は『記憶』。
藤野合宿以降、『感覚』についての探求心が強くなっていたため、その部分は 組み込みたいと思っていた。神経細胞をモデルにした舞台装置もそのひとつ (あの舞台装置は見る人によって様々なものに見えたと思う)。そういう意味で は、今回の作品はイオカステの心象風景とも言えるかも知れない。
身体に刻み込まれた無意識下の記憶。奥の奥の奥にしまい込まれたモノが 逆流してきたとき、内部で動くものはどんなものか?

我々は感情で動く。感覚で行動する。時には自分でコントロールが利かなくな るくらい、体内の活動に支配されている。それっていったい何だ?自分の中で は、何が起こっている?
体内で起こっている複雑極まりないシステムとその世界、人体の不思議。

…ううむ、解からん。

『感覚』というキーワードは、今回に限らず今後の作品の根底になるのではな いかと思っている。
『つみつま』の言葉遊び、水の使用、ガムテープの目隠し、細胞のモチーフ …。
ストーリーや意味としてではなく、もっと曖昧で直接的なモノ。


前回の総括では『言葉』を解体し、さかのぼっていった結果『音(文字)』に行き 着き、そこからシーンを再構築していった。それと同様に、『演じる』という行為 を解体し、さかのぼれば『感じる』に行き着くのではないかと思った。
自分に(周囲に)起こっている事を観る・聴く・読み取る。身体が動く。声を、言 葉を発する。体温が上がる。手足がしびれる。心が震える。
それは『生きている』という事ではないだろうか?
極論かもしれないけど、『演じる』事は『感じる』事であり『生きている』事ではな いか?とすれば、それは非常に原始的な作業なのだろう。と思う。
――日常でも『生きて』いるはずなのに、演じているときのほうが生を実感でき るというのもなんだかなあと思うのではあるが。



今回の発表中、『感じる』事がどれだけできただろうか?

過去の作品よりある程度カタチにはなっていたかもしれない、まとまっていっ たかもしれない。
しかし、深みが無い。思索が浅い。自分自身がその中に没頭していない。
ただ『感じる』では意味の範囲が広すぎるし、曖昧すぎるのだ。
もっと奥にあるモノ、深く深く追求しないとここまでやってきた意味が無い。

大切なのは続けていく事。



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