『山頭火』

シアターファクトリー「藤野合宿」
実験・創造工房 研究試演V
2003年9月23日14時― 
藤野芸術の家・クリエーションホール
監修 林英樹

創作ワーク試演
構成・演技 上杉塩一

自分の表現を深く突き詰めていくと、自分では計り知れない自分の血の深さ を知る。所詮、人は自分の血から離れることはできない。自分でも未だ知るこ とのできない自分の存在は、確実に血の受け継がれた存在であって、自分の 無意識の中にその血が蠢くことがある。自分が想像するよりはるかに壁をぶ ち抜く力であるその血の濃さを自分の中に見てみたい。それがこの作品を作 ろうと思った理由だ。一人一人の血が舞台で踊るといい。それこそが一人一 人の差異なのだ。


子どものころから私はちょっと子どもっぽくない子だった。10歳のときに、茶道 を始めた。きっかけは大したことはない。夏休みに預けられていた親戚の叔 母が茶道をやっていて、一緒について行っただけのことだ。しかし、その茶道 の先生の家に入った途端、体が震えた。その香り、その風景、その静寂全て が捜し求めていたような気がした。それからお茶の世界に入り込んだ。もうひ とつどうしても耳から離れない音があった。それがお経だった。別に熱心な仏 教徒でもない。ただ、お経の声・・その不思議なリズムが子どものころから心 地よかった。自分が生まれるずっと前から聴き続けていたような気がした。


今回の作品の音で、「天台声明」を使ったのは自分のそんな原風景から来て いるように思う。この声明の声の中で自分は何を表現するのか・・・・それは自 分の存在しかない・・・自分の生を表現したい。そのときふっと種田山頭火の ことが頭に浮かんだ。母親の自殺、様々な不遇とトラウマの中、一鉢一笠の 托鉢僧となって漂泊の旅を続け、生と必死で向かい合う山頭火の句を口から 吐き出したいと思った。

 
声明が聴こえた瞬間、全ては空白となった。しかし、実に落ち着いていた。自 分の呼吸が見えてくるようだ。脳裏に幼いころの自分が蘇る。体は自然に動 く。山頭火の句が口からはじけ出る。声明が変わり、五悔(ごげ)に入ると、自 然に上から見つめる目を感じた。上からの視線はこれまでの舞台と違い、自 分の丸ごと見透かされるような気がする。途中で持っていた鳴子が飛んでい ってしまうほど何かに突き動かされていた。最後の山頭火の句、

「産んだまま 死んでいるかよ かまきりよ」

を吐き終わった瞬間、初めて少しだけ自分の生を表現できたような気がした。

 
『ツアラトストラはかく語りき』(第一回創作ワーク)の時もそうであったが、改め て自分自身の表現を創っていきたいと思えた。これからも自分の身体と真摯 に向き合いながら自分の存在・血と会話していこうと思う。

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