|
社会。…という名の秩序。集団の中に隠されたモノ(者)。人という生き物には
感情が宿る。凄惨な「事件」が起きる、いや、起こるのは、その感情が存在す
るからなのか、それとも感情が欠落しているからなのか。ある一つの出来事
(事件)を私達なりに模索、追求し、今の時分(自分)に辿り築いた答えが「ドー
ル・V」なのである。
長崎佐世保の女児殺傷事件については様々な見解がなされている。私自身
はあまりマスコミを肯定したくないので、真実はどうなのかは解らない。が、あ
る書籍によると学校の同級生、怜美さんを殺害した少女Aはごく普通の少女
だったという。果たして、ごく普通、とは何なのだろうか。一つの幼い命を殺め
てしまった時点で「今在る社会」では「ごく普通」では無いと思うのだが。確かに
「ごく普通だった」と過去形には記されているものの、少女Aが結果への過程
を踏まず突発的に「異常」になる事は有り得ない。という事は何らかの原因が
あり、事件を起こす以前から少なからず少女Aに「異常」が存在していたので
はないだろうか。物理的にいえば少女Aの趣味嗜好、学校環境での立場、家
庭内状況をマスコミ情報からみれば「異常」を垣間見る事が出来る。
しかし昨今、佐世保の事件に限らず、そういった少年少女達の事件が増加し
ている。という事は、「という事」でもなく、現代において遺伝子レベルでの「異
常」が現れているという壮大な論点に発展……………………と、色々空想、
妄想出来たりする訳なのだが…。
…かくいう私自身も現代の病んだ遺伝屍なのかも知れない。その逃れられな
い己の遺伝子に組み込まれた「無機質な情念」があの冒頭のシーンに集約さ
れているといっても過言では無い。だから日によって空気が違う。
この世に天災が有る様に、板の上に魔物が居る様に、私達の周りにも私達で
も予測不能な空気が存在する。6月27日の本番ではあの時にしかない空気が
存在していた。そして今も
増殖を続けている「その日の少女A」が現れるのだ…。
少女Aの日記のテクストを入れたシーンでは、そんな誰でもなりうる少女Aの一
面を示している。彼等は安易な言葉遊びの裏に潜む「闇(病み)」に気付いてい
ない。だから、気持ち悪い。現代っ子特有のアンバランスさが隠れているの
だ。
ラストの「だるまさんがころんだ」のシーン。これは「ごく普通」に見えていたモノ
が「異常」なモノにすり変わる、現実になるその瞬間の刹那。。。さて、今回の
ラストは現実と非現実が交わる瞬間に作品が終る。それならば現実に戻った
「後」はどうなるのかー?もし叶うのならば、再び少女Aと出会った時には、マス
コミにも伝える事の出来無い少女の「のちの真実」を希求してゆけたら、と想
う。
今回の創作を終えてみて初めて、やっと、私はそんな想いを重ね、創りあげて
いた事に気がついた。そうなのだ、答えを出すには「ドール・V」の中の少女
達は、あまりにも無垢だったからー。
|
|
|
|
|
今まで『ヌード・V』、『アンチゴネー/血』、『イグアナの娘、たち』と、先輩たち
に混じって集団創作に参加させてもらっていましたが、今回は同じ集団創作で
も、状況も面子も全く違う6人、、、同期生、集団、自分が中心となっての一か
らの作品作り、とにかくもう大変!!!というのが率直な気持ちでした。
今回演出・構成という重大な立場でやらせていただきましたが、ここで私は、
本当に自分のイメージや、思考力の乏しさというものを、今まで以上に更に増
して痛感させられました。
作品を作っていく上で、皆の意見などをまとめ、全体を導いて行かなければな
らない立場でありながら、何をどうすればどうよくなっていくのか、何がいいの
か悪いのかの判断、更には自分自身がどうなのか、自分が何をしたいのか
の迷走などと、周りにまでかなりの混乱をまねくような状態になってしまいまし
た。
うまく伝えられない言葉足らずなところもあるのですが、それにしてもはっきり
させることの判断といいますか、決断、覚悟があまりにもあいまい…。おかげ
でみんなにはいっぱい迷惑をかけました。サポートもかなりしてもらいました。
あらかじめ、ちゃんと言葉にして伝えられるようにはなっておきなよと、忠告い
ただいていたにもかかわらず…。申し訳ない。
それにしても作品自体、まだまだ不完全燃焼で終わった感じがします。せっか
くの面白いテーマだったのに、アイデア不足とも言われましたが、膨らまし切
れずじまいになってしまい、今一歩釈然としない感じというか…。それでも今の
自分達の力量では精一杯のモノになっていたとは思いますが…う〜ん、イマイ
チもどかしい。。。
今回のことで、自分の弱点が今まで以上に色濃く浮かび上がってきました。ま
た、その弱点と沢山向かい合うことができました。苦しいけれど、ものすごくた
めになる経験をさせてもらったと思います。
今もまさに現在進行形ですが、その弱点達を徐々に自分の中で、一つずつ課
題にし、少しずつ消化していこうと試行錯誤を繰り返している最中です。克服
までには、まだかなりの時間がかかりそうですが。
…得たもの、というよりも、改めての発見、これからの課題が、『ドール』をやっ
たことによって浮き彫りにされました。
これを一つのステップとして、先に生かすことのできるよう、もっと自分を見つ
め直して行きたいです。
|
|
|
|
|
今回この『ドール・V』は初めて同期生のみでやったのですが、やはり同期で
やるのは思っていた以上に大変でした。ですが、同時にやりがいはとてもあっ
たと思います。『ヌード』や『イグアナの娘、たち』等ではとにかく与えられる情
報をいかに自分のものにするか必死になっていたのですが、今回はサポート
しあって皆で作った作品なので、今までやってきた作品とは違った勉強が出
来たと思います。とはいっても、まだまだ突き詰めなければならない箇所や、
違ったアプローチの仕方が出来るところがたくさんあったと思うので、作品とし
ては本当に初歩の初歩であったと思います。今だからこうして冷静に考えられ
るようになりましたが、やはり作品を作っている時点では客観的にもなれず、
視野が狭くて判断が鈍っていました。冷静で見られる目線はとても大切だと改
めて思いました。こちらの伝えたいことをやりたいようにやってしまっては伝わ
らないし、こうしたらどう見えるかしか考えていなかったのかもしれません。見
え方も大切だとは思うのですが、それは伝わっていることが前提でないと意味
が無いんだと思いました。あとは各々の力量不足と意識の弱さで伝わらなか
ったというのもありますが…。本当に流れをなぞる事に必死になりすぎた感じ
がしました。
作品を作っていくというのは当たり前なのですが、とても大変な作業だと思い
ました。この『ドール・V』を通していろいろなことに気付くことが出来たし、また
当たり前になりすぎていたことに改めて再認識出来ましたし、やって良かった
と思います。また機会があればまた同期で作品を作ってみたいと思いました。
それまでに今回気付いたことを消化出来るようになって、今度はもう少しより
良い作品作りをしたいと思います。
|
|
|
|
|
23。
これは私達の稽古した回数だ。果たして多いのか、少ないのか。
しかし、その限られた回数の中で私達はやれるだけの事はやったと思う。
一度は同じ瞬間を共有した仲間でも、少し離れてしまうと色々なものが共有し
にくくなってしまっている。理解しにくく、言葉にならないギモンを常に持ち続け
ていた。まさしく「暗中模索」……何かが違う。しかし、そんな事ばかりしていて
も時間は無情にもやってくる。衣装、音響、演出、構成。やらなければいけな
いことは山のよう。一人の仕事が次の稽古を左右する。だからみんな必死だ
った。
最後の最後までそのギモンは何だったのか分からなかった。私自身ずっと
「暗中模索」「紆余曲折」していた。仲間に対して。自分に対して。確かなもの
なんか見つからなかった。そんなものを客に提示してなんたることや!と怒り
の言葉もあるだろうが申し訳ないとしか今は言いようがない。「確信」なんても
のはなかった。けれど板の上に立っていて心が動かされる事はあった。
本番独特の空気によって生み出された「念い」は、そこから芽生えたものは、
それだけは、自分の中の「確かなもの」だと思った。そこでしか得られない「確
かなもの」を求めてこれからもずっと演じ続けていきたいと強く願った。
ずっと個人作業しかしたことのない私にとっては、悩むこと、辛いこと、話し合
い、楽しさもすべてが新鮮で幸せだった。仲間と創るということ、共に居る、共
に在るということが集団創作の醍醐味だと思った。ほんと1人でいると怠けて
しまうからダメだなとつくづく反省…。うぅむ・・。
何度も途(みち)に迷った。何度も問いかけ、何度も挫けそうになった。時には
自分の能力の低さを嘆くこともあった。それでも逃げたくなかった。仲間ため
にも、誘ってくれた横山のためにも、自分のためにも。この稽古を通して自分
の課題と、新しい自分を発見できた。逃げなくてよかった。やって良かった。
ただただ満ち足りた達成感のみあるわけではない。
後悔の念のみでもない。
今は半々でそれが丁度良く穏やかである。
|
|
|
|
|
『ドール・V』は現代の子供を題にして創作しました(最初はニートをもってきた
んですが、漠然としすぎてたのでやめたそうです)それにしても、果たして練習
中に何度「いやー、わからん!今の子供はわからんよー」と何回言ったこと
か。
皆行き詰まったり、なんやかんやするとその言葉が出るんです。今思うと、は
て、何で子供のことがわかんなくなってしまったんだろ??何で「今の子供は
わからない」と思うようになってしまったんだろうか???
同じ時代、同じ文化、同じ食べ物、同じ遊びをしてきた人達の事を、どうして無
意識に「わからない」と思うようになってしまったのかなぁと、思う次第でありま
す。はい。きっとね、今回題材にした佐世保の事件しかり、多くメディアで取り
上げられる少年犯罪の一様情報を見て、感覚が流されて左右されてしまった
ところが大きいのかなぁ思うのです。もう、テレビや新聞で報道される少年犯
罪は今、特に「異常性」とか「壊れる子供」とか、私たちの認識にない子供像を
与えてくれて、だからきっと「自分の中にない「子供」」=「わからない」になって
しまったのかなと。それは、あんまりよくない傾向で、それも必要ですが、それ
だけじゃ駄目なので、気をつけたいと思います。はい。
大体、私は今そういう今の子供(特に事件をおこした少女Aの年代、小学校高
学年)と付き合いも無いし(皆はどうか知らないけれど、でも確か付き合いはな
いと言っていた気がするぞ)会って話したこともないし、直で触れ合ってないの
に、わからないと決め付けるのはほんとに良くない。良くない。
大体、子供が壊れてきてるのなら、それを育ててる大人も壊れてきてるってこ
とだし、壊れてきてる大人を所有してるのは社会だから、社会全体が壊れ始
めてるってことであわわわわ。
日本は平和だけれど、でも本当にゆっくりと壊れてきてるのかもしれないす
ね。皆やることないから、あとはゆるゆると壊れていくだけなのかも。それはそ
れで感慨深い。
最近は深夜近い時間に、子供が普通に起きて外にいるのを見ると、私はどん
なメディアの情報よりも、一番「子供」の差異を感じるのです。
どうしたらいいのかな。どうしたらいいのかを考えていこう。できれば、実際の
子供達と一緒に。それはね、作品云々じゃなくて、これからも生きていくであろ
う、私と私以外の皆と、きっとしなければいけないものなんだろうと思う。私キ
ャパシティ狭いからあんまり色々抱えこめないけど、なるべくね、うん。よっし
ゃ。
作品自体はなんだかつぎはぎ。イメージ、つぎはぎ。構成つくりの工程がとい
う要素が大きいけれども、何だかつぎはぎの作品だったなぁと。つぎはぎつぎ
はぎ。齟齬だらけー。現実と空想も、妄想も、夢も、中も、外も、死も、生も、空
間も、時間も、何だかうまくリンクせずにできずに、どこからか拾い集めてきた
みたいな不細工な大きな塊。だから何だかやってもやっても居心地悪かった
り、とっちらかったり、むしゃくしゃしたり、心地良い世界なんて、あそこにはき
っと無かったのだねぇ。もし、似たような感覚を今子供達が持っているのなら、
いや、こりゃ大変だっと、思う。
あと自分が人間的に馬鹿だということを今回痛感して悶えたので、それは次
に生かす。本気。
あと自分が大変容量の狭い人間だと実感。無理矢理広げると多分パンクする
から、容量良くやるやり方を覚えよう。今回は同期だけだったから、迷惑かけ
迷惑かけられ、苛々させ、苛々させられ、どっこいどっこいで皆よいしょよいし
ょ。そんなもんだ。
はっと思ったんだが、さっきから子供子供と言っているのですが、果たしてそ
んな自分は一体なんなのだろう???「大人」で、よいのかな。うーん。また疑
問が浮かんできてしまった。次までの宿題にしときます(礼)
|
|
|